SPECIAL COLUMN
#1「もったいない」ってそんなに大事な価値観ですか?/妹尾ユウカ
私は貰った物をよく捨てる。それが高価な物だろうとなんだろうといらなくなったら捨ててしまう。相手を必要としなくなれば、付随して物も不要となる。
去年の9月中旬に男から貰ったブレスレットは9月下旬にはゴミ箱にいた。これはウサイン・ボルトも驚くであろう、自己最速記録である。
美化された記憶はしつこい
捨てるタイミングは、贈り主との現在の関係を終わらせる決意をした瞬間である。私にとって「貰った物を捨てる」ということは、今のフェーズから抜け出すための作業であり、人生をアップデートし続けるための儀式なのだ。
堅実な友人からは「売ったら良かったのに」と言われたが、売れるまでの短い期間であっても、自分が「いらない」と断定した物を部屋の隅にでも置いておくことが出来ない。当然、しまっておくなんてことも出来ない。
貰った物を捨てるという行為を、無慈悲に感じる人もいるだろうが、貰った瞬間の喜びは人一倍大きく、思い入れも深い。
だからこそ、私はそれらを「勢い」としか形容し難い早さで日常から取り除く。思い出は恐ろしいほどに頭の中で美化されていくと知っているし、意思の弱い自分にはうんざりだからだ。
ただでさえ思い出が美化されていく中で、貰った物が目に入れば、それを受け取った頃のいい思い出ばかりが簡単に取り戻されてしまう。
愚かにも「あの頃が1番幸せだった」と自分の人生のピークを”あの頃”に定め、留まってしまう。美化された記憶というものはしつこい。
そして、そんな愚かさというものは、正すことが年々困難になる。すがればすがるほど、「正しくない」と分かっていたって引き返すことが困難になる。
「間違っていた」と認めることは、これまで費やしてきた全てを無駄にするような、損をしたような、そんな気持ちにさせるからだ。
話が少し膨らんでしまったが、私はこれらに気が付いてから、過去に執着を持たなくなった。男女関係、さらに言えば人間関係において「もったいない」という価値観は必要ないと思っている。
服は人生を変えるかもしれない
おまけに私は自分で購入した服や靴もよく捨てる。これは見慣れた服を着るとワクワクしないのが理由だ。
最近では、友人にあげることが多くなったが、超骨格ウェーブである私の服は、骨ストのドンである友人にはひどく似合わないこともあり、その度にしっかりとマウントを取って遊んでいる。
意地悪な余談はさておき、「いつか着るはず」ととっておいた服をいつか着たためしがあるだろうか。そこには新しい服を着た時のような高揚感があるだろうか。そんなことを自分に問いかけ、私は服を手放していく。
服は気分を変えるから。気分が変わると行動が変わるから。行動が変わると人生が大きく変わるから。
加えて、ワードローブがいらない服で溢れ返ると、着たい服を見つけにくくなってしまう。着ていく服を「選ぶ」時間は幸せだが、着ていく服を「探す」時間は手間なだけだ。
靴をよく捨てる理由はシンプルに歩き方が汚いから。特に、お酒を飲んだ日は「戦地を経由したのか?」と疑うほど、ボロボロにしてしまうから。ただそれだけ。